こちら西郷隆盛さん。
維新の大立役者です。
ま、西郷さんの実写は本人確認されたものがないので、
とりあえず、日本人共通認識といった形ですが、
一応、西郷さん。

いまでは、「敬天愛人」のイメージがありまして、
西郷隆盛といえば、偉人な感じです。
ま、たしかに人徳は凄まじいものがあったようですが、
他方、テロリスト的側面もあったのです。
これは歴史的な事実としてご紹介しておきまぷ。
慶応三年(1868年)11月あたりのこと。
このころは、大政奉還が終わりましたが、
まだ江戸幕府もシステムとしてはちゃんと機能していました。
でも、薩長とも幕府と戦うために準備してきましたので、
どうしても戦いたくてしかたないわけです。
幕府はヘタレのように言われていますが、
この頃には、西洋式の陸軍を整備して
相応に強い組織を持っていたんですね。

しかし、薩長も軍備を調えておりましたしね。
まあ、腕に覚えもあったので、
なんとしても幕府と戦争がしたいわけです。
でも、なかなか幕府が腰をあげてくれない。
そこで、西郷さんは薩摩藩士である益満休之助を呼び寄せまして、
浪士を大人数集めて江戸市中で強盗をやれ、と命令しました。
これを受けて、薩摩藩お抱えの浪士たちが、
江戸市中の大店を襲撃しはじめました。
日本橋金吹町の両替商播磨屋を襲撃して、
1万8千両を強奪したり、
紀州藩上屋敷に大人数で押しかけ
これも6千両あまりを押し借りという名目で強奪したりと、
大店ばかりでなく各藩邸までもが被害を受けました。
で、その時、薩摩お抱えの浪士隊は、
けん銃をぶっぱなしながら襲撃してきたと記録がありますんで、
押しかけられた方はたまったもんじゃありません。
こうして得た千両箱を肩に担いで、
薩摩浪士隊は堂々と薩摩藩邸に帰還します。
こういうことがずっと続いていましたので
旧幕府も陸軍などを投入したりして
取締を強化していたわけですが、
相手はテロですからね。
なかなか打撃を与えることができません。
そんな時、江戸城二の丸から火災が発生します。
捜査の結果、薩摩藩士伊牟田尚平の
手引きであることが判明したということで、
旧幕府は、いよいよ薩摩藩邸を攻撃して
市中の治安回復の決定打とすることを考えます。
ま、薩摩としては願ったり叶ったりというところでして、
旧幕府軍が薩摩藩邸を焼き打ちした時、
おもだった薩摩藩幹部たちは
さっさと品川から薩摩藩船に乗って
江戸から脱出してしまいました。
この時、生き残った薩摩お抱え浪士隊は、
のちに「赤報隊」となるんですが、
これは、のちに「偽官軍」として新政府軍から消されます。
もちろん、益満休之助も流れ弾に当たって死にます。
江戸城二の丸放火事件の犯人と目された、
伊牟田尚平も、なぜか詰め腹を迫られて自害します。
そのまま年が明けてすぐ、
薩長の挑発に乗る形で
松平泰直は全軍15,000余を率いて進軍を開始しまして、
翌日1月3日から鳥羽伏見の戦という内乱が発生します。

待ってましたと明治新政府は、
徳川慶喜追討令を出します。
去る三日、麾下の者を引率し、剰前に御暇遣され候会・桑等を先鋒とし、闕下を犯し奉り候勢、現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白、始終朝廷を欺き奉り候段、大逆無道、最早朝廷に於て御宥恕の道も絶え果て已むを得させられず追討仰付けられ候。
去る3日、指揮下の家来どもを引率して、
おまけに以前、暇を出した会津や桑名を先鋒として宮中を犯し
慶喜から戦端を開いてくるとは、謀反の意思は明らかである。
始終に渡って朝廷を欺いてきたことは、
もう大逆無道であるによって、
ここに至れば朝廷も寛大な心でお許しになるという道もなくなった。
これによってやむを得ず、
慶喜の追討を仰せ付けられたのだ。
ざっとこんな意味ですね。
あとはみなさんご存知の通りです。
ま、そんなわけで西郷さんの別の顔ってことで、
教科書では習わない歴史講座でした。
ちゃんちゃん











































