私がよく使う佐幕という言葉。これはいったいなんでしょうというご質問をいただきました。ネットで調べると、佐幕(さばく)とは、動乱の幕末期によく使われた言葉で、「幕府を補佐する」の意。 しばしば倒幕派と対比するために佐幕派とも呼ばれると書かれています。佐は補佐のことですから助けるとか支えるという意味を持つわけです。とまあ、ここまで辞書的な意味となりますが、これではつまらないのでちょっとひねりを加えていきましょう。
佐幕の対義語があるとすると倒幕という感じでしょうか。幕府を支える反対側の人たちですから倒幕です。この倒幕という言葉は徳川治世を終了させることを意味しましたので、それに変わる統治機構を作らないといけません。それが明治政府だったわけです。
ただ、ペリー来航の時に倒幕なんて機運があったかというとまだまだそんな時代ではありません。1853年のペリー来航から1868年の戊辰戦争まで15年ほどあります。この頃の幕府はまだまだ統治機構としても盤石でしたから、薩摩藩や土佐藩は佐幕派で幕府を助ける立場でしたし、長州藩ですら倒幕までは考えておらず尊皇攘夷という考え方で留まっておりました。
ただ、この尊皇攘夷という思想がちょいと面倒でして……。文字だけを見れば皇を尊び夷を打ち払うという意味ですから当時の公家や武士階級から見れば胸がスカっとする思想です。しかし、当時は列強が虎視眈々と日本を狙っている状況であり、客観的に見れば尊皇攘夷自体は極めて実現困難なマニュフェストでもあるわけです。
山本太郎氏がこんな公約を掲げていましたね。今でもそうなのかな。
典型的なポピュリズム的な公約が並んでいます。実現不可能な公約を高らかと掲げることで迷蒙の大衆の感情を高揚させて、そのエネルギーで大衆を特定の方向に誘導していくわけですね。
尊皇攘夷もこれと同じ構図であろうと思うのです。尊王攘夷運動のボリュームゾーンは下級武士です。つまり、食うや食わずの下級武士達は上級武士ほどに学問をしてないので、扇情されエンロールされやすい傾向があったかと思うのです。
どこに誘導されるかというと、「夷狄打つべし!」「異国船、打ち払うべし!」という方向です。しかし、実際にそれをやると列強の反撃を食らって統治機構である徳川幕府の信用が失われ、資金的に疲弊し、そして治安が悪化していきます。それが狙いだったのです。
尊皇攘夷を仕掛けた連中は、そのように無学な下級武士達を上手に操って日本国内を混乱に陥れ、幕府の統治機構を揺さぶろうとしたわけです。
そして、揺さぶりが効いて来たところで、次は倒幕という思想にすり替えていきます。まるで既得権益層がグローバリズムや共産主義、そしてSDGsにすり替わっていくのと同じ構図ですね。
こういう奔流のような流れに対して、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して抵抗したり、あるいは会津藩などは少年兵なども繰り出して徹底抗戦をして幕府側に立って戦いました。
いずれにせよ、日本から武士を無くしたのは痛かったと個人的には思いますな。個人的な妄想としては、徳川幕府がそのまま政治を行っていくことができれば、また違った歴史になっていただろうにと思うのです。
とまあ、佐幕、尊皇攘夷、尊王倒幕というような思想は、グローバリズムや共産主義と同じく皮をかぶっているので、その奥にある本質を見抜くことが肝要であろうと思うわけであります。吉田松陰の尊皇攘夷と世良修蔵の尊皇攘夷は違うということです。長州の尊皇、薩摩の尊皇、土佐の尊王、福岡藩の尊王はそれぞれ中身が違うということですね。

この私の記事も参考にしてね。
立場の移り変わり
佐幕の対義語があるとすると倒幕という感じでしょうか。幕府を支える反対側の人たちですから倒幕です。この倒幕という言葉は徳川治世を終了させることを意味しましたので、それに変わる統治機構を作らないといけません。それが明治政府だったわけです。
ただ、ペリー来航の時に倒幕なんて機運があったかというとまだまだそんな時代ではありません。1853年のペリー来航から1868年の戊辰戦争まで15年ほどあります。この頃の幕府はまだまだ統治機構としても盤石でしたから、薩摩藩や土佐藩は佐幕派で幕府を助ける立場でしたし、長州藩ですら倒幕までは考えておらず尊皇攘夷という考え方で留まっておりました。
ただ、この尊皇攘夷という思想がちょいと面倒でして……。文字だけを見れば皇を尊び夷を打ち払うという意味ですから当時の公家や武士階級から見れば胸がスカっとする思想です。しかし、当時は列強が虎視眈々と日本を狙っている状況であり、客観的に見れば尊皇攘夷自体は極めて実現困難なマニュフェストでもあるわけです。
山本太郎氏がこんな公約を掲げていましたね。今でもそうなのかな。
①消費税廃止
②最低賃金1500円(政府補償付)
③奨学金徳政令
④公務員増
⑤一次産業戸別所得保障
⑥トンデモ法一括見直し
⑦辺野古基地建設中止
⑧原発即時廃止
典型的なポピュリズム的な公約が並んでいます。実現不可能な公約を高らかと掲げることで迷蒙の大衆の感情を高揚させて、そのエネルギーで大衆を特定の方向に誘導していくわけですね。
尊皇攘夷もこれと同じ構図であろうと思うのです。尊王攘夷運動のボリュームゾーンは下級武士です。つまり、食うや食わずの下級武士達は上級武士ほどに学問をしてないので、扇情されエンロールされやすい傾向があったかと思うのです。
どこに誘導されるかというと、「夷狄打つべし!」「異国船、打ち払うべし!」という方向です。しかし、実際にそれをやると列強の反撃を食らって統治機構である徳川幕府の信用が失われ、資金的に疲弊し、そして治安が悪化していきます。それが狙いだったのです。
尊皇攘夷を仕掛けた連中は、そのように無学な下級武士達を上手に操って日本国内を混乱に陥れ、幕府の統治機構を揺さぶろうとしたわけです。
そして、揺さぶりが効いて来たところで、次は倒幕という思想にすり替えていきます。まるで既得権益層がグローバリズムや共産主義、そしてSDGsにすり替わっていくのと同じ構図ですね。
こういう奔流のような流れに対して、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して抵抗したり、あるいは会津藩などは少年兵なども繰り出して徹底抗戦をして幕府側に立って戦いました。
いずれにせよ、日本から武士を無くしたのは痛かったと個人的には思いますな。個人的な妄想としては、徳川幕府がそのまま政治を行っていくことができれば、また違った歴史になっていただろうにと思うのです。
とまあ、佐幕、尊皇攘夷、尊王倒幕というような思想は、グローバリズムや共産主義と同じく皮をかぶっているので、その奥にある本質を見抜くことが肝要であろうと思うわけであります。吉田松陰の尊皇攘夷と世良修蔵の尊皇攘夷は違うということです。長州の尊皇、薩摩の尊皇、土佐の尊王、福岡藩の尊王はそれぞれ中身が違うということですね。

この私の記事も参考にしてね。
立場の移り変わり


