太古神代
神武天皇の御即位による紀元節ということで
みなさま、おめでとうございまする。
皇紀2677年となります。

GHQから廃止させられた紀元節も
左翼どもの「建国記念の日」という言い換えで変節させられつつありますが、
この日は誰がなんと言おうとも紀元節であります。
よって、みなさんも紀元節と呼び慣わしてまいりましょう。
では、一曲参りましょう。
日本萬歳、皇統彌榮
ついでに日本民族、産めよ殖やせよw
初代神武天皇が即位されてから2673年です。
つまりー、皇紀2673年ということですね〜。
8888888888

古代にはローマ(王制ローマ〜共和制ローマ〜帝政ローマ)
中世にはベネツィア共和国と
1000年以上続いた国がありましたが、
現存する国家としては世界最古の国が日本であります。
ざっと計算すると建国年は、紀元前660年。
文明的にはギリシャとか秦とかが華やかだった頃です。
他の国は滅亡しましたので、
日本が最古というわけです。
そもそも本日は明治以降、紀元節(きげんせつ)といわれてました。
ところが、戦後GHQから紀元節は廃止されまして、
紆余曲折を経まして昭和41年から「建国記念の日」となりました。
紆余曲折というのは、
自民党系は「建国記念日」にしようとしたわけですが、
当時の社会党が「建国したかどうかわかんないのに
建国記念日と名づけるな」といちゃもんをつけたところから
喧々諤々となりまして、折衷案で「の」を入れろとwww
やはり、頭が左がかった連中は意味不ですが(爆)
ともあれ、本日は日本書紀に則ったれっきとした日なのですね。
ま、できれば、建国記念の日とかせずに、
単純に「紀元節」としていただきたいものっす。
あと、天皇誕生日は、「天長節」でよろしくです。
では、良い午後を
さて、天武帝といえば、大海人皇子(おおあまのみこ)。
その名の通り、大海人。
吉野には、宗像海人や安曇海人らの奴国系海人が土着しておりまして、
彼らはやがて、山伏として吉野で生活をしていきます。
もちろん、同じ出自の役行者(役小角)は山伏の祖。

平安末期、奥州藤原氏のもとで育った源義経が
奥州をホームタウンにしたように、
大海人皇子も生れ育った吉野を拠点に大友皇子軍と戦い、
この壬申の乱に勝利。

大海人皇子は40代天武帝となるも……。
この天武帝の系統は、
49代光仁帝、50代桓武帝で途絶えてしまうのであります。
その間は、やたら女系(赤字が女帝)が多く……。
41代持統
42代文武(早逝)
43代元明
44代元正
45代聖武
46代孝謙
47代淳仁(天武系だが廃位)
48代称徳(孝謙が重祚)
49代光仁(天智系に半分シフト)
50代桓武(完璧に天武系絶たれる)
天武系の人物が皇位につくと廃位されたり、
あるいは廃太子となったりとされる一方、
天武系の帝たちは繋ぎ女帝を立ててでも
なんとか天武系でパスを繋ごうと努力している様子が見えますねー。
で、おもしろいことに、
京都の東山に泉涌寺(せんにゅうじ)というお寺さんがありますが、
ここは皇室の菩提寺というか、
ま、本地垂迹の名残で帝のお位牌があるんですね。

この泉涌寺の霊明殿というところに安置されているらしいんですけどね、
ここには、天智+光仁〜昭和天皇までのお位牌が祀ってあるんです。
つまり、天武から称徳までは丸無視なんすよ……。
40代の天武から48代の称徳までは無視ね。
分かりやすい系図を探したんですけど、
あんまいいのないんで参考までに。

まあ、ここからは妄想ですよ、あたしの妄想ですけどもね。
これはやはり、奴国系海人の王朝は巧妙に排除されたということだろうと。
大和王朝からすれば土蜘蛛みたいな連中ですからね。
それが、大海人皇子のおかげで盛り返したっ!
んで、大和王朝のシステムを上手に使って帝になった。
よっしゃーーーっ! と思ったのもつかのま……。

長い時間をかけて巧妙にまだ奪い返されていった……と。
まるで、どこかの秘密結社みたい……。

そうこうしていると、佐伯真魚さんとか出てくるわけですよ。
全国各地を回っていますし、
もちろん、博多あたりも回っているんですが、
最後は、吉野の上の方、高野山に密教の道場を開くわけっすね。

今となっては、奴国系も何もないでしょうが、
その頃まではまだまだ「海人系」の
血の繋がりはあったんじゃないかなーと。
個を超越する血の繋がりがね。
そういうところにロマンを感じちゃいますねー。
ってことで、もう少し書きたいところっすけど、
ま、今日はこの辺りで。
さ、役行者に戻りますよ。

役行者は「賀茂氏」でしたね。
この賀茂氏は、高鴨神社の神官さんの家。

この高鴨神社は、葛城山のふもとにあります。
この葛城山には昔、銅山があったことでも有名っす。
この高鴨神社の祭神は、味耜高彦根神(あじ すき たか ひこねのかみ)
賀茂氏は、この味耜高彦根神を祖先神としていまして、
古事記には……
大国主神、胸形(むなかた)の奥津宮に坐(ま)す神、
多紀理毘売命(たきりびめのみこと)を娶(めと)して生める子は、
阿じすき高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)。
この阿じすき高日子根神は、今、か毛(かも)大御神と謂うぞ……
こう書かれておりまして、
この賀茂氏の祖先神の味耜高彦根神のお父さんが大国主神。
お母さんが、多紀理毘売命ということがわかります。
で、この多紀理毘売命というお母さんこそ、
宗像海人の信仰対象であった海の航海神だったりするんですねー。
こちらのお母さんは、今でも宗像大社の先沖合に浮かぶ孤島、
沖ノ島でひっそりと祀られておりますです。
ま、そんなわけで、
どうも役行者も、宗像海人くさい……。
で、この鴨、賀茂、加茂、加毛も
いまは茨城や新潟辺りまでを北限に満遍なく広がっていますね。
こちらは沖ノ島です。

多紀理毘売命が嫉妬するから
女性の上陸はNGだとも……?

竜神信仰のメッカですから
当然に竜神のようなものもありますね。
もち、国宝。

こちらは金の指輪。
もち、国宝っす。

そんなこんなで鉱脈を探してか……
はたまた何か理由があったのか……。
奴国出身の宗像海人集団と安曇海人集団は、
伊豆へ流れ着いたようです。
安曇海人というのも奴国から東へ旅だった海人のことっす。
つまり、これも土蜘蛛として蔑まれた人たちですね。

ふたつの海人集団が住み着いたわけですから
きっと伊豆は海洋都市として賑やかだったでしょう。
もち、日本書紀にも少しこの辺り、書いてます。
伊豆国に科して、長さ十丈の船を造らせた。
船ができあがり、試みに海に浮かべたところ、
軽く浮かんで、船脚は、走るように速かった。
そこで、その船を名付けて枯野といった。
ってことで、この伊豆半島も
役行者の伝説が多いところ。
寄生虫藤原氏に簒奪されたこの国を
奴国ゆかりの葛城王朝の末裔が
どうやって切り崩していったのか……。
この辺りはとても興味深いっすねー。
ってことで、次は、大海人王子と宗像海人くらいいっときましょうか。
続きはまた明日にでも。
追記:結構、たくさんの方にお読みいただき、
渡るべき方に秘伝が渡っているのだろうと思いますので、
女性脳覚醒禁書の続編を書いてみようと思いましたです。
今度はさらに前振りを省略してポイントだけ
わしづかみにポンポンポ〜ンと書いていきましょう。
ってことで、お楽しみに!
まだ、女性脳覚醒禁書を読まれてない方、
この機会にぜひ、どうぞ。
さて、続きです。
こちら、真魚様ですね。

本姓はご存知ですか??
そうそう、「佐伯」ですねーー。
それから、「真の魚」ですよ。
ね、なんとなく繋がりますか??
それから、金印で有名な志賀島ですけどね、
その昔は、「筑前国 那珂郡 志賀島村」でありまして。
この「那珂」という名前は、
やはり「奴国」がなまったものだとも いわれておりますです。
今でも福岡には「那珂川」が流れておりますが、
栃木県にも那珂川がありますし、
その昔、吉野川周辺も「那珂郷」と呼ばれていたりとか。
また、「中荘」という地名も残っていたりします。
で、この中荘こそ、
あの大海人皇子(おおあまのおうじ)が
壬申の乱で挙兵したホームタウン。
ここに吉野宮があったわけっす。

名前を注意深くみてくださいましな。
大海人皇子っすよ。
大海人……。
また、なぜか、この吉野宮に帝が行幸されるわけですが、
持統天皇などは34回もこの吉野宮に足を運んでらっしゃいます。
何をされていたのか……。
それは謎であります。
で、この那珂とか、那賀とか、志賀という地名が
四国から関東・北陸にかけて無数にあるわけっす。
あまりにありすぎてもう書きませんけどね。
この海人たちは青銅器の銅鉾文化の民だったしく、
銅山を求めて東へ東へと進んでいったのではないか……とか。
ま、青銅器っていうとね、
みなさん、こんなの想像しちゃうでしょう?
緑青が葺いていて、なまくらで……って。

でも、本当の出来立てホヤホヤの時は
こんな感じでキラキラしてるんですよー。
ま、でも、これはグラディウスなんで
青銅器とは違いますから
あくまでもこんな感じ。

ま、日本には青銅器と鉄器は同時に入ってきましたんで、
金属器の民……といってもいいわけですが、
ほら、いるでしょう。
鉱脈探しが上手な方々が、日本にも……。
そこに大きな寺院を建てた方とか、いるでしょう??
つーことで、いよいよ役行者に戻るわけですが、
これが、胸形(宗像)海人と大きな関係があるということで……。
そうそう、宗像大社のある宗像ね。
ふふふ。
勘の鋭い方はもうそろそろ気づいているでしょう。
ではでは。
古代にあった葛城王朝をたどっていくと……。
なぜか、筑紫の志賀島に立ち至ったりします。
山国であるもある吉野に
なぜか「海の痕跡」がちょこちょこみられたりするのも、
この志賀島の影響があるのではないかと。
そういわれておりまして……。
もち、史料的な学者さんの意見ではありませんです。
その筋の話ね(笑)
手前が金印で有名な志賀島。
その向こうに広がる内海が博多湾。

志賀島、小さい島ですけれどもね、
なにせ金印を埋めるくらいですし、
奴国の中心地でもあったわけっす。

で、九州方面の風土記の記事を観てみると、
志賀海人、宗像(胸形)海人、値嘉島海人など
こういう海人のことを、土蜘蛛と書いているわけっす(笑)
どうやら、当時の大和王朝は、
海人のことを土蜘蛛といっていたようなんすね。
ま、コレなんて顔がサルなんすけどね。
あと、脚はコオロギでね……。

まあ、そんな感じで、
風土記、日本書紀、古事記に記載された「土蜘蛛」事件を数えると、
なんと35件にものぼるんすね。
そのうち25件が九州。
さらにそのほとんどが北部九州。
って、この話、ついて来れますかね(苦笑)
興味ある方には垂涎なんでしょうが、
興味のない方はチンプンカンプンかもしれませんので
その時は華麗にスルーしてくださいませ^^;
で、常陸国風土記にもおもしろい記述がありましてね。
茨城郡に、「都知久母(つちくも)」が住んでいたと。
これは別名、国栖(くず)とも、国巣(くず)とも呼んだと。
あるいは、「山の 佐伯」、「野の佐伯」とも呼んだと。
ちなみに、「佐伯」は正真正銘、土蜘蛛の別称ですねー。
ほら、いるでしょう、有名な「佐伯さん」が……。
この土蜘蛛さん、この頃になると落ちぶれてしまいましてね。
穴を掘って穴の中で生活していたようです。
で、大和の人間が来るとパパっと穴に逃げ込み身を隠し、
やつらが去ると、また穴から出てくる。
ま、こんな感じで……。

あ、いや、こんな感じでした。

ある時、大和王朝軍が土蜘蛛討伐にきましてね。
土蜘蛛の留守中に、こそ〜りと穴の中に茨棘を仕掛けておいたとか。
それで、土蜘蛛を追い立てると、
土蜘蛛は穴の中へ我先に逃げ込み
憐れにも、茨棘に刺さって死んでしまった……とか。
それから、茨城という名前になったと常陸の風土記には書かれています。
この海人たちは、
自分たちを龍の末裔と考えていたようで
体中に龍にまつわる彫物をしていたんすね。
なんせ、もとは海人ですから……。
ってことで、海人、土蜘蛛、佐伯、国栖……。
この辺りは、みな同じ一族を表す言葉ですね。
んじゃ、長くなったので
記事を改めましょう。
こちらは、役行者(えんのぎょうじゃ)。
またの名を、役小角(えんのおづぬ、えんのおづな)。
正式な名前を、加茂役君小角(かものえだちのきみのおずの)。

飛鳥時代から奈良時代の人物だといわれていまして、
その生誕地は、葛城山。

葛城山といえば、葛城王朝……。
おっと、この辺りに触れるとやばいかも……(爆)
大和王朝と並び立つといわれていた(らしい)この王朝、
ある時、大和王朝に征服されて亡国の憂き目にあったとか。
大和王朝は、この葛城王朝の人々を土蜘蛛と呼んでいたようで、
土蜘蛛が住んでいたといわれる「蜘蛛窟」とか、

御所市の一言主神社の境内には「蜘蛛塚」があったりとか、

結構、この辺りには葛城王朝の残り香が残っているような……。
ってことで、この辺りを少しずつご紹介していきましょう。
役行者に代表される賀茂氏はこの葛城が出自。
ってことで、彼は土蜘蛛の出なわけです。
ちなみに、蘇我氏も葛城を出自としていますぞ。
なんか繋がったかな??

隠された日本の歴史は霧が深くかかっているようです。
7月は全国各地で祇園祭が行われますねー。
京都の祇園、博多の祇園などなど。
平安京はヘブライ語でイールシャロームとか。
馴染みのある言葉でいえば、エルサレム。

そういえば、平安京からさらに遡ること数百年。
蘇我氏の名前っておもしろいですね。
蘇我稲目は別にしても、
蘇我馬子
蘇我蝦夷
蘇我入鹿
……ですからね。
この辺り、寄生虫藤原氏の悪臭がぷんぷんしますね。

いったい、何が隠されているのやら……。
なんか触ると変なものが出てきそうなので
この辺りで……ソソクサ……。
ということで、歴史はロマンでありまする。
ってことで、ごきげんようーー!
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